薔薇娼婦麗奈



 ちょっとまずい相手に会ったな、と思った。

「たまには遊びに来てちょうだい。サービスしてあげるわよ」

そう言ってあでやかに微笑むのは、顔見知りのお店の女だった。
この数軒先にあるキャバクラのナンバーワンで、年は20代後半に入ったくらいだろうか。スタイルのいい華やかな雰囲気の美人である。
そこまでお客を送ってきたらしい彼女に、偶然、大口は行き会ってしまったのだ。

彼女との関係はあくまでも顔見知りであり、それ以上でもそれ以下でもない。
だが、彼女の方は体格の良い男(ちなみに職業は知られていない)を気に入っているらしく、こうして顔を合わせるとお誘いをかけてくる。

サービスしてあげるとは言っても、ただにしてあげるとは言わないのに、相手に嫌悪感を与えないのは、さすがに店ナンバーワンなだけある。
しかし、ここまではっきり、「美味しそう」と綺麗な笑顔に書いてあるとなると、もう苦笑するしかない。

「ごめんなさい。俺、好きな人がいるんで」
「嘘、って言いたいところだけど、分かるわよ」
「そう?」
「そうよ。私がちょっといいな〜と思う人は、皆、好きな人がいるの。優しい目をしてるのも当たり前よね」

そんな風に女性に言われたことはなかったから、正直なところ、大口は少し戸惑っていつもの調子を崩す。
しかし、彼女の方は気にしていなかった。

「好きな人がいる、ね。いいじゃない。新しいテクを開発させてあげるわよ」
「だから、勘弁して下さい」

あっけらかんとした言葉に、今度こそ苦笑が零れる。

「本気でその人のこと、裏切りたくないし。誘いには、かなりぐらっときてるんだけど」
「嘘つき」

ちょこっと拗ねたような表情で、彼女は大口を見上げる。
が、誘いは本気でも、大口が乗ってくるとは最初から思っていなかったのだろう。次の瞬間には、さっぱりとした表情で微笑む。

「いい男って、どうして皆こうなのかしら。こんなにいい女が誘ってるのに…あら」

何かを見つけたように、彼女の瞳が動く。
その視線を追って、大口もそちらへと顔を向け。
軽く目をみはった。


ビルの通用口から出てきたその人は、壁に軽く寄りかかって煙草に火をつける。
一連の隙のない、流れるような動きを何となく二人は無言で見守った。

と、相手の方がこちらに気付いて、少しだけ驚いたような表情をした後、微笑と共に彼女に目礼した。

「シマさん…よね?あの人も綺麗な人よねぇ…他の子たちは“小さくて可愛いらしい”って思うのかもしれないけど」

にっこりとあでやかな笑みで片手を振り返してから、小さく彼女は溜息をつく。
その横顔には、はっきり「味見してみたい」と書いてある。
それを見て、大口はまた苦笑した。

「そろそろお店戻らないとまずいんじゃない? また麗奈さん目当ての客が来てるだろうし」
「そうね。いい加減にしないとフロアマネージャーに怒られちゃうわ」

うなずき、大口を見上げる。

「その気になったら、遊びに来てね。うんとサービスしてあげるから」
「はーい。フラれた時には是非、慰めて下さい」
「まかせて。じゃ、これ約束ね」

え、と思った時には、もう遅かった。
向こうに居る人に意識が向いていたせいもあるだろう。
甘い甘い薔薇の香りが鼻先をかすめて。

「ご馳走様」

にっこりと笑うと、彼女はヒールを鳴らして人込みの中に消える。
その後ろ姿を、いささか呆然と見送って。
大口は、スローモーションな動きで、向こうのビルを振り返った。










煙草を手にしたまま、嶋本はうつむいて小さく肩を震わせていた。
同期と飲みに来ていた嶋本は、珍しく貰った煙草を吸おうと外に出てきて思いがけない場面を一部始終目撃してしまったわけだが、大口の心理を想像するとどうしようもなく笑いがこみ上げてきた。
爆笑しそうになるのをかろうじてこらえ、たいして吸ってもいない煙草の灰が長くなっているのに気付いて、足元に捨て、火を踏み消す。
吸い殻を拾ってゴミ箱に投げいれながら、近付いてきた人影に顔を上げた。

「………」

言いかけた言葉を止め、大口は何かを思うように一瞬、まなざしを彷徨わせる。
そして、改めて嶋本を見つめた。

「――ごめんなさい」

ただ一言だけ、告げる。
その神妙な台詞と表情に、嶋本は一つまばたきしてから小さく微笑って。
ちらりと通りの方に視線を走らせてから、伸び上がるようにして唇を重ねた。
少ししか吸っていない煙草の匂いよりも、長年で染みついた潮の匂いが鼻先を掠めた。

「嶋本さん?」

一瞬だけ触れて離れたキスに、大口は目を見開く。
と、嶋本は軽く笑んだまま、大口を至近距離から見上げた。

「どっちが気持ちええ?」
「──そんなの、比べ物になるわけがないでしょう」
「せやろ」

大口の答えに、嶋本は笑う。

「あんなことでわざわざ嫉妬なんてせんわ。おまけに、麗奈ちゃん…やったっけ?いつもあんな感じやん」
「…そういえば、嶋本さんのことも美味しそうに見てました」
「知っとる。俺かて前に誘われた事もあるで。ま、隊長がおらん時限定やけど」

さらりと言って、嶋本は手を伸ばし、大口の頭を撫でる。
人が見ていないからこそ触れてくるのだろうが、嶋本が外でこんなことをするのは珍しかった。

「それに、女の子にそう思われるなんて悪い気はせんし?」
「嶋本さんでもそんなこと思うんだ」
「そりゃな」

それよりも、と続ける。

「お前が言い訳せんと、開口一番謝ったからまぁ、ええ気分やな。これで不可抗力でした〜とか、女の子のせいにしとったら、ぶん殴るところやったで」
「本当は一瞬、言い訳しようかな、とも思ったんですけどね。キスされたのは、俺に隙があったからだし。でも、女の子に責任なすりつけるなんてこと、しませんって」
「ま、お前らしいっちゃらしいよな」

また小さく笑って、嶋本は大口に問いかけた。

「お前、この後あの子の店行くん?」
「行くわけないでしょ!あの子より、できれば嶋本さんと二人っきりになりたいんだけど」
「…ふーん。ま、ええか。麗奈ちゃんと間接キスできるし?」
「嶋本さん、ヒドイ」

笑いながら、数度、大口の頭を小突き、「ちょお、待っとけ」と、同期たちがいるであろう店に入っていった。
自分だったらそのまま抜けてるのに、と思いながらも、付き合いを大事にする嶋本のことを愛しく思う。

やがて断りを入れてきた嶋本が出てきて、お互いに笑い合う。
悪戯を共有したかのようなその笑いに、さっきの女の子とのキスなんかでは感じなかった欲がこみ上げてきて、その小さな――綺麗と評された体を腕の中に収めた。

「…こう言うの、“ほだされた”っちゅーんやろなぁ」
ぼそりと呟いたその唇にキスを落とそうとしたら、ぐい、と胸を押しやるように拳を突き出されて、腕の中から逃げられてしまった。
「調子のんなや。行くで」
「…はーい」

こちらの返事を待たずに背を向けて歩き出す背中に、やはり笑ったままで返事をした。
薔薇の甘ったるい匂いなんかよりも、この人の匂いの方が断然いいな、と思いながら。